- 田原家(藤原家)の系図
藤原鎌足(ふじわらのかまたり)*1・・・・・生誕:614年(飛鳥時代-推古天皇)
死没:669年(飛鳥時代-天智天皇)
出生地:大和国高市郡藤原(現:奈良県橿原市)
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の側近として
“大化の改新”を推進。後の、赤堀三家の祖先
藤原不比等(ふじわらのふひと)*2・・・・天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の次男子である。
藤原不比等 : 斉明天皇5年(659年)~ 養老4年
(720年)は飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。
<藤原四家>・・・・・奈良時代に南家・北家・式家・京家の四家に分かれ平安時代には北家が皇
室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。
<藤原四兄弟>藤原四家の祖となった人物
・長男:藤原武智麻呂 ・次男:藤原房前 ・三男:藤原宇合(うまかい)・四男:藤原麻呂
(680-737)南家祖、(681-737)北家祖、(694-737) 式家祖 、(695-737) 京家祖
藤原四家は、737年(天平9年)に天然痘の流行で相次いで死亡。750年ごろから藤原南家
の藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が台頭し764年(天平宝字8年)に反乱を起こして敗死した。
藤原魚名(ふじわらのうおな) *3・・・・・藤原房前(ふじわらふささき)の五男
- 藤原魚名 奈良時代(721~783年)
平安時代に入ると魚名の後裔は急速に勢力を伸ばし、
再び公卿の地位を占めるようになった。
子孫からは鎌倉時代の有力御家人で秋田城介を世襲した
安達氏や戦国大名として有名な伊達氏等、多数の有力武家
を輩出した。
- 藤原藤成 (藤原魚名の五男)(776-822)
- 藤原豊沢・・・・・藤成の子
- 藤原村雄・・・・・豊沢の子 官位は下野大掾(しもつけたいじょう)(下野は現在の栃木県)
- 藤原秀郷*4・・・・ 藤原村雄の子(別名:俵藤太)、平安時代中期の貴族・武将。平将門を討
伐して下野守となった。
子孫・・・・・・・・・多数の有力武家を輩出した。
奥州藤原氏・・・・ 藤原秀郷の子孫
寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)
までの間、陸奥の国平泉を中心に 出羽を含む東北地方一帯に勢力を
張った 豪族。
藤原清衡(ふじわらのきよひら)・・・・・初代当主(1056-1128)奥羽両国の押領使となり鎮守府将軍・平
泉に中尊寺を建立、奥州藤原氏の基を開いた。
藤原基衡(ふじわらのもとひら)・・・・・平安時代後期の豪族。奥州藤原氏第2代当主。(生没年不詳)
陸奥出羽の押領使。京の文化を移入し、毛越寺を建立。
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)・・・・・平安時代末期の武将。第3代当主。出羽押領使・鎮守府将軍
奥州藤原氏の最盛期を築く。源頼朝と対立し、源義経を庇護。
また宇治平等院を模して無量光院を建立( ~1187)
藤原泰衡(ふじわらのやすひら)・・・・・平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)
陸奥出羽の押領使。父の遺命によって源義経を衣川館に庇護し
たが頼朝の圧迫を受けて、これを殺害、かえって頼朝から攻撃
されて殺された。( ~1189)
文治5年(1189年)家臣の造反により藤原泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。
その後の系図は不明
以下一部は「四日市市史」昭和5年刊・・・・・四日市市教育会より抜粋
田原(足利)又太郎忠綱(またたろうただつな)・・・・・・藤原秀郷の11世の孫
豊前守佐野景綱( さのかげつな さのかげつな)(佐野小次郎)・・・田原又太郎忠綱の従弟
田原孫太郎景信(まごたろうかげのぶ)・・・・・景綱の八世。
応永年代(1394~1427)に上野国赤堀庄(こうずけのくに
あかほりのしょう)(現在の群馬県)より伊勢国栗原(常盤村
大字赤堀)に移り、 ここに築城して地名を赤堀と改め城を築
いた初代赤堀城主。
長子:盛宗(もりむね)・羽津家・・・羽津城主田原右京亮近宗(うきょうのすけちか むね)
の時代、元亀3年(1572)に織田信長の武将、瀧川一益の家
臣である山口四郎右衛門によって羽津城は滅亡した。
次子:秀宗(ひでむね)・赤堀家・・・長野城主工藤藤定によって赤堀城は179年で滅亡
する。
末子:忠秀(ただひで)・浜田家・・・室町時代の文明2年(1470)に浜田城を築城 。
田原美作守忠秀(たはらみまさかのかみただひで):初代浜田城主・・・生誕:不明 死没:1488年
羽津-末永-芝田-日永の東海道を浜田城の東に移し(現在の旧東海道)又、毎月
四の付く日に市場を開いた。これが四日市の地名の起源ともなった。
併せて家臣の千種・丹羽・堀木・味岡・生川等を城下付近に居住させ、浜田の
基を成した。
田原紀伊守藤綱(きいのかみふじつな)・・・・・・・・二代目城主
田原遠江守元綱(とおとうみのかみもとつな)・・・・三代目城主
田原与右衛門重綱(ようえもんしげつな)・・・・(元綱の息子)四代目城主
- 四代百余年にわたる浜田城は、天正3年(1575)6月6日織田信長の武将瀧川一益に攻略され
落城した。
- 【注 記】
*1 藤原鎌足
時代 飛鳥時代
生誕 推古天皇22年(614年)
死没 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)
改名 中臣鎌子、鎌足、藤原鎌足
神号 談山権現、談山大明神
墓所 阿武山古墳、大織冠神社、談山神社
官位 大織冠内大臣
主君 孝徳天皇 → 斉明天皇 → 天智天皇
氏族 中臣氏、藤原氏
父母 父:中臣御食子、母:大伴智仙娘
妻 鏡王女、車持与志古娘
子 定恵、藤原不比等、氷上娘、五百重娘、耳面刀自、斗売娘
*2 藤原不比等
文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の
官職に就くことができるとされた。
不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として
祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の
実質的な家祖と解することもできる鎌足の子である不比等がその姓を引き継ぎ、
以後不比等の流が藤原朝臣と認められたとされる。
<経歴>
659年 誕生
669年10月16日 鎌足死去
688年2月26日 直広肆(従五位下)判事
? 直広弐(従四位下)
697年8月20日 娘宮子を入内
? 中納言
701年3月21日(大宝元年)中納言より正三位大納言に昇進
701年12月27日 外孫、首皇子(聖武天皇)誕生
708年3月13日 右大臣
720年8月3日死去。
720年10月23日贈正一位太政大臣 文忠公、淡海公を贈諡
<系譜>
父 :藤原鎌足(但し、一書に天智天皇の皇子と記される。)
母 :車持与志古娘(車持国子の女。但し、不比等の母は鏡王女とする説が
有力。)
兄 :定恵(または定慧。俗名は真人)
妻 :蘇我娼子または媼子 - 蘇我連子の女
長男:藤原武智麻呂(680-737) - 南家祖
次男:藤原房前(681-737) - 北家祖
三男:藤原宇合(694-737) - 式家祖
*3 藤原魚名
養老5年(721年) - 延暦2年7月25日(783年8月27日))は、奈良時代の公卿
藤原北家
<系譜>
父:藤原房前
母:片野朝臣の娘
妻:藤原宇合の娘
男子:藤原鷹取(?-784)
男子:藤原鷲取(?-?)
三男:藤原末茂(?-?)
妻:津守氏
五男:藤原藤成(776-822)
妻:不明
男子:藤原真鷹(あるいは直鷹)
女子:藤原小黒麻呂室
女子:藤原長道室
*4 藤原秀郷(ふじわらのひでさと)(藤原鎌足八世の孫)
時代 平安時代中期(794~1192)
生誕 不詳
死没 不詳
別名 俵藤太、田原藤太(通称)
墓所 群馬県伊勢崎市(上野国)赤堀今井町の宝珠寺
栃木県佐野市(下野国)新吉水町の藤原秀郷公墳墓
官位 従四位下、下野守、武蔵守、鎮守府将軍 贈正二位
氏族 藤原北家魚名流
父母 父:藤原村雄、母:下野掾鹿島某の娘
兄弟 姉妹:平国香室
妻 源通の娘
子 千常、千時、千晴、千国、千種
<平将門の乱>
天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、
甥(姉妹の子)である平貞盛・藤原為憲と連合し、天慶3年(940年)1月、
平貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて貞盛と秀郷の軍に藤原為憲も
加わり、翌2月14日、連合軍と将門の合戦で勝利。平将門は討ち死にした
藤原秀郷が宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣をもって
将門を討ったと言われている。平将門の乱において藤原秀郷が着用したとの
伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山
神社に伝わっている
- <百足退治伝説>
瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを
通りかかった藤原秀郷は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。
その夜、美しい娘が秀郷を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間
秀郷が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が
三上山(近江富士)の百足に苦しめられていると訴え、秀郷を見込んで
百足退治を懇願した。秀郷は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を
7巻き半する大百足が現れた。秀郷は矢を射たが大百足には通じない。
最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治する
ことができた。秀郷は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵など
の宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ること
ができたという。