● 鵜森神社の沿革
 天正3年(1575)6月6日、浜田城主田原遠江守元綱(たはらとおとうみのかみもとつな)は織田信長の武将“瀧川一益”との戦いに敗れ浜田城は落城した。落城した浜田城は、その後織田の家臣(瀧川一益、織田信雄の家臣瀧川雄利)が一時入城して修築したとされている。
落城寸前に息子“与右衛門重綱”は元綱の命で脱出して難を逃れ、その後、皮肉にも織田信雄に仕え、天正12年(1584)秀吉が信雄と対立した美濃加賀野井城の戦いで討ち死にし田原家は滅亡した。更に、秀吉は浜田城に立てこもった瀧川雄利を攻め浜田城は完全に落城した。その後、城主田原家の旧臣達(注-1)がこの城跡に、慶長以後万治以前(1596~1658)の間に鵜森大明神を創立し、同家の遠祖である田原藤太秀郷及び初代浜田城主“田原美作守忠秀(たはらみまさかのかみただひで)”以下4代の霊を祀ったと言われている。
その後、天保8年(1837)別社として御霊社を創建し忠秀以下4代の霊を祀り直し、鵜森大明神に、天照大御神と建速須佐之男命を祀って明治に至った。
明治42年(1909)神社合祀令により、菅原神社、御霊社、鵜森大明神を合祀し従来の鵜森大明神を現在の「鵜森神社」に改称した。

*(注-1)忠秀の次男で堀木家の始祖となった弥兵衛秀常の孫、定直が中心となって城跡に祠(ほこら)を建てたのが始まりであろうと考えられている。
定直は、浜田家(注-2)直系の子孫で、慶長年間に浜田村庄屋を務めた村の最有力者であり、浜田家滅亡後も伝来の兜を保管していたとされる人物である。
*(注-2)浜田城築城後は、田原家から浜田家に改名した。

 

●平成の大造営
 平成天皇御即位の大典を記念し平成2年11月新社殿(本殿・拝殿)を再建した。尚、年月の経過とともに、社務所・稲荷社等も建築以来百年前後となり、老朽化してきたことから再建することとなった。
社務所     平成4年10月10日再建
田原稲荷    平成7年10月10日再建
鎮座地
    三重県四日市市鵜の森一丁目十三番九号
    旧称:三重県四日市市大字濱田字堀之田

 



●鵜森神社 祭神  
 ●天照大御神・建速須佐之男命・菅原道真公
       旧鵜森大明神・・・・・・・田原藤太秀郷
       旧御霊社・・・・・・・・・・・初代浜田城主 忠秀以下4代の霊
           田原美作守忠秀(初代城主)
           田原紀伊守藤綱(二代目城主)
           田原遠江守元綱(三代目城主)
           田原与右衛門重綱(四代目城主)

●社 紋

 ●三頭左巴(みつがしらひだりともえ)
  赤堀三家の家紋(赤堀家は、田原藤太秀郷の末裔)
  初代赤堀城主 田原孫太郎景信(祖先:田原藤太秀郷)
      長男:盛宗・羽津家
      次男:秀宗・赤堀家
      三男:忠秀・浜田家

●田原家の紋所


 ●先代赤堀上野介の軍容は常に八十万騎の威勢ありと世間に
  伝い觸しこれを吉兆として用いたとされている。

 

 


 

●田原稲荷大明神

 

浜田家の鬼門除けの鎮守であったと言い伝えられており、この稲荷は本来普通の稲荷社であったが歴史的にも田原家と深い関係があることから、平成7年の造営に際し「田原稲荷大明神」と改称された。
旧境内社三社(稲荷社・菅原社・御霊社)中の最古社であった。
●田原稲荷大明神 祭神
 ・猿田彦命(さるたひこのみこと)
 ・保食神(うけもちのかみ)
 ・大宮能賣命(おおみやのめのみこと)